花祭りと結核と

夫が観ているテレビが、どこかの寺の花祭りの様子を映しているのを見て、「そういえば今日4月8日はお釈迦様の誕生日で花祭りの日だなぁ」と夫に言った。私は結婚前に、仏教関係の大学の付属幼稚園に勤めていて、夫はそれを知っているので、懐かしいような気持ちがしたのだ。


花祭りのニュースからいくつか芸能人の動向を知らせるニュースが続いて、お笑い芸人のある人が結核で入院した、という報道があった。
それで一気に、幼稚園に勤め始めたばかりの花祭りのことを思い出した。


私は高校を卒業して専門学校の保育科で二年学び、幼稚園に勤めたのだが、花祭りは、入園式の翌日の行事で、先生の私も幼稚園に入った子も両方とも何も分からないままこの行事をやる、のであった。しかも、こどもたちはみんな頭に冠をつけて、園服の上にベスト風の裃(?)をはおり、鈴を持って町内を練り歩くのであった。


先生一年生の私は、真新しい白いスーツを着て、行列の先頭に立って、園児の列の方を向き、つまり後ろ向きに歩きながら、園児が歩道から車道に出ないように必死で気遣っていた。場所は現在の駒沢公園の近くの国道沿いである。当時は東映フライヤーズの球場があって原っぱもある野趣の色のある街だった。
園児のかわいらしさに、住宅や商店から見物人が大勢集まって、カメラのシャッターを押す音がし、その中を私はわけわからぬまま先頭に立たされていたものだから、恥ずかしさと、こどもになにかあってはいけないという必死さで、汗がボタボタと流れるほど緊張してしていた。


・・・と、とある住宅地内に入ろうという角から、「カッパさ〜ん、カッパさ〜ん」という黄色い声ならぬ男性たちの声がしてきた。カッパさんというのは私メのことだった。当時私の泳ぎっぷりはそういう異名をとるほどであったのだ。声の方を見ると、私の親友が卒業を前に結核で倒れて駒沢駅近くの病院に入院していて、私は毎日彼女の見舞いに行き、そこで何人かの若い患者と知り合いになっていた。私を呼んでいたのは、その中の退院が間近な若者たちだったのだ。
私はそれですっかり上がってしまい、後のことはよく覚えていないほどであった。


お笑い芸人の方の結核のニュースを聞いて、私の若い頃は多かったんだなぁとも思い出した。
親友のSちゃんも、そこで知り合った人たちもみんな退院をされて社会復帰されたのだが、当時は、結核とわかると友人が避けるようになったこともあったらしい。
後に私は、Sちゃんや花祭りに来ていた若者(私も当時は若者の一人だった)も、私のことを、「結核の自分たちに毎日見舞ってくれて、本当にいい人だと思った」とか、花祭りの日のことに至っては、「あの時、ぼくらはパジャマにゴムぞうりといういでたちだったのに、何も避ける風なくにこにこ手を振ってくれて嬉しかった」とやけにほめまくられた。


あれは、そういうんじゃなかったよ。毎日病院に行ったのは、学校も、卒業した後の勤め先も、家に帰る途中にあったからに過ぎなくて、慰めてあげようとか、そんな気持ちはかけらもなかった。つまり私こそ楽しかったのだ。
花祭りの日のことは、彼らの服装や身なりや雰囲気がどうであったかなどまるで気にしなかっただけのことだ。呼ばれたから手を振っただけで、実際そのこともよく覚えていないくらいテンパッテいたのである。


親友のSちゃんは今も互いに親友だけど、他の人たちはどうしておられるだろう。
そして当時のこどもたちはどうしているだろう。何人かのこどもは今も年賀状を送ってくれる。立派な社会人になっている。
今夜は当時の知り合いだった全部の人のために祈りたい気分。幸せでありますように。