する仏教ー「ぶたの一声」より

作家の矢玉四郎さんが、「する仏教」と書いていらっしゃいます。
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一部を抜粋させていただきますと、

仏教はお寺さんにお金を渡して、してもらうもの、というのが現状です。だが、これは釈迦の言われることに反する。

仏教はすることが大事。仏教書を読んで理論を学んだり、知識を蓄えることは二の次で、禅であれば座禅をする。浄土門であれば「南無阿弥陀仏」をとなえる。日蓮宗であれば唱題行など、あるいは、作務として掃除や草取りをひたすら「する」ということを教わる。そんなことをしてなんになるのかという疑問は常にある。だが、その疑念を一度捨てて、阿呆らしいことを一生懸命やるのが、極意。小賢しい教育を受けた頭を徹底的にぶち壊すことが初歩の初歩だ。

私はこのことに深く頷くものがあります。私は、こどもの頃から、どこの場でも、するべきことを何の批判精神を持たず、黙々とする、という気質のようなものがありました。
でも年齢がいくにしたがって、そうした私の気質は回りからよく批判をされました。上のいうことに唯々諾々と従うのは、意識が低くて生き方が安易、というような批判です。
私はそうした批判が、自分が劣っている、と見られた気がして、それに対抗し、何事にも必死に理屈をつけるようになっていきました。


疎外感や孤独感に苦しんだこれまでの人生でしたが、今にして思いますと、こうした自分の自分を持たない弱さをもってしては、満たされるものがなくて当然だとわかります。
本来の自分に戻って、それなりの平安を得るまでに、ずいぶん時間がかかりました。
でもそのことの悔いはありません。


こうして起き抜けの朝のひととき、「する仏教」は、とても心を爽やかに愉しく満たして下さいました。