医療体制のひび

堀江貴文さんがブログで、墨東病院の妊婦死亡事件のことを取り上げておられる。堀江さんは、一言でいえば病院や医師側の立場でこの問題を見ていられて、志の高い医師ほど危険のともなう科を選び、結局何かあるとこういう真面目な医師が訴訟をおこされたりする、と書かれている。
誠実な文で、好感が持てるし、質的には共感する。
だが、どうも私は病院側には立てない。

これまでの社会を振り返って見るに、患者は何もいえない時代が続いた、と思う。私は戦中に生まれて四国の小さな町と村で育ったが、こども時代、生きて病院に行ったものが死んで戻り、大人たちが目を真っ赤にして、子供や親を殺されたに等しい事態を嘆き憤っているのを何度かそばで見た記憶がある。そしていずれも、病院や医師の傲慢の前に何も言えない無念がそこに充満していたことも。
そうした記憶をもとに、医療体制(強い側が支配的に成り立っている社会)の中には、こうした歴史が営々と続いていたと実感的に思えるのだ。

また、現在も、夫の親族の多くが代々医師をしており、私の父の本家もそうで、そうした身近な存在の中から、『医療側の傲慢という欠落は、志の高い立派な医師の数を上回るのではないか』ということを実際的に受けることが強く、私の内には、医療側に家族の命をなくされても何もいえなかった人の姿の方が相変わらず根付いているのだ。

この点からいえば、患者という弱い側が、裁判の場、という力を得たのは当然だ、と思っている。(全部とは思わないし、墨東病院がそうされるべき病院など思っているのではなく、一般論として、公正な洞察を前提に患者は泣き寝入りをしてはならない思いの上で書いている)。

だが、こうした訴訟が多く出るに従い、医療体制がひびわれてきて、医師の不足など、医療そのものが崩壊しかねない危機に瀕してきているようで(堀江さんはそれを憂えておられる)・・・考え込んでしまいそうだ。

私たち患者の側にできることは、全てを信じることなのだろうが・・・なかなか・・・・・なぁ。