親や教師を刺す若者たち・・・”人間の傷”

昨夜、疲労が激しくニュースもよく見ないまま眠ってしまったのだが、ついていたテレビの電源を切る間際に、報道ステーションの古館さんが、元教え子が教室に押し入って教師を刺したという事件について語っておられたのが、今朝になっても残っていた。うろ覚えの言葉だが、「刺した元教え子は、現在人間関係がうまくいかないのは、その先生のせいだ、と言ってるようだが、先生のせいにして・・・」という意味だった。


今朝になってそのニュアンスが蘇る。たしかに、誰かのせいにして人を刺すなど認められるものではないが、ただ、だからと言って、彼らのその言葉、『○○があった、□□のせいだ、△△が悪い』を社会や世間の常識感や価値観にあてはめて、「甘えだ」と切るだけでは何もわからないままになるばかりだ、と思えてならない。
行為の正当化、ということではなく、『○○があった、□□のせいだ、△△が悪い』の○○、□□、△△、をしっかり受け止めて、そこで生じた”人間の傷”を知ることは必要ではないか、と思うのだ。


世間の範疇や多数の常識感からはずれたところで、”人間の傷”を受けて苦しんでいる”人間”はたくさんいる。その傷を、自分がわからないからといって切り捨てる”常識感”の実体は何なのだろうか・・・と、独自の”人間の傷”を負う者の一人として私は考え込んでいる。