「沙門亮輝の真言密教の世界」よりー仏教とは覚醒するための教えなり

沙門亮輝さんは、私が今年になってからとみに空海や般若心経に関心を持つようになり、ネットで検索して出会った僧でいらっしゃるのですが、この時既に38歳の若さで遷化されていました。
大変ショックでしたが、でも私にとって幸いなことに、102編のコラムをホームページに遺していらっしゃいました。それを折りにつけ時につけ読ませていただいています。
今日開いたコラムは下のものでした。
ここに、通常の会話の中で悪い意味で言われることの多い『いい加減』について述べてあります。

しかしそれが「良い加減」であり「適当=適切」なのである。
仏の説法の基本は「待機説法」である。
「待機説法」とは岩波の仏教辞典では「教えを聞く人(機)の能力・資質にふさわしく法を説くこと」と定義されている。
つまり仏は相手にとって良い加減に説法するのである。

これを読んで、「あっ」と思わず声が出そうになりました。
そうなのか、これまで自分に起こった全てのことは、私そのもの・能力・資質に相応しい、「良い加減」のことであったのだ、とそれこそ覚めたからです。


自覚の宗教の意味を考えるhttp://www.shingon-sect.jp/c0101.shtml

平成 19年 8月 21日
つい最近、知り合いのA君と話をした。
A君は仏教徒なのだが「仏教なんていいかげんで適当で矛盾だらけ」なんてことを言う。
A君が仏教をもっと柔軟に専門的に勉強すれば偏見はなくなるはずだが、私を含め、お坊さんが仏教の核心を布教していない点を私は反省している。
仏教はたしかに厳格な統一性がない。しかしそれが「良い加減」であり「適当=適切」なのである。
仏の説法の基本は「待機説法」である。
「待機説法」とは岩波の仏教辞典では「教えを聞く人(機)の能力・資質にふさわしく法を説くこと」と定義されている。
つまり仏は相手にとって良い加減に説法するのである。


人間は様々だから「様々な良い加減」が仏によって説かれ伝承され、膨大な経典になった。その経典の数は『八宗綱要』という書物によれば8万4千という。
仏の教え(智慧)とは「経典にこう書いてあるからこうしなさい!」という類の強制的で他動的性質ではない。
「経典を根拠に柔軟性を持たない宗教は平和を害する」
仏教は経典を根拠に考察したり修行したりはするが、押し付けではない。押し付けではないから良い加減で平和的である。
相手によって話の内容を変えるのは二枚舌ではないかと屁理屈をいわれそうだが、たとえそうでも教祖や経典や教義を根拠に戦争や殺人がなされる類の宗教よりはよほど平和的でベターだといえるのではなかろうか?
私は最低限のことをA君に説明するが、A君はよく仏教について理解はしてくれる。だが「理解」と「自覚」は別物である。


「理解」は頭の中で納得することであり、「自覚」は迷いの世界において自ら目が「覚める=醒める=覚醒する」ことである。
A君に私は理解をさせるという他動的行為はできてもA君自ら自覚(覚める=さめる=覚醒する)ことはA君の自動的行為であるから、私の他動的行為はそこに及ばない。ここに覚りの分岐点があるといえよう。
A君が妄想・もうぞうの世界から醒めて覚るときがくることを私は願ってやまない。