秋葉原の事件にまつわる記事 2

リンクをたどると、「宮台真司新聞」というブログがあった。
(註:宮台さんご自身のブログではないらしい)
http://labs.spicebox.jp/shinbun_maker/v/b07c124ca3dbe5515e91bd5a30197c0e.html

そして、そこから↓のブログに出合った。

[社会]秋葉原の事件を「テロ」と受け止める感性ー数学屋のめがね http://d.hatena.ne.jp/khideaki/20080615/1213538598

共感したり、考え込んだりしながらこの記事を読んだ。
ラストに、『加害青年のような人々が、自爆的なテロリストにならずに、その思いを適正に表出できるような、宮台氏の言葉でいえば「表現」出来るような社会を築きたいと思う。絶望感が、孤立的な絶望感にならずに、どのようにすれば思い止まるきっかけをつかめるようになれるか。我々の社会は、そのようなものを作り出していく必要があるのではないか。』と書かれていて、ここを読んだ時涙が溢れそうになった。この文章の後、『これはとても難しい』と続いていて、その通りだと思うのだが、『加害青年のような人々が、自爆的なテロリストにならずに、その思いを適正に表出できるような、宮台氏の言葉でいえば「表現」出来るような社会を築きたいと思う。』に含む、人間への限りない”公正”な視線は、今も生きることに喘いでいる私にはすごい勇気を感したのである。

私は、2001年9月にアメリカで起こったあのテロの後、『IO 小さな声』というサイトに、自分をテロリストと自覚し投稿をしている。
自分をそう自覚する理由も経緯も他者から見たら呆れるほどのものであろう。ほんとに自分でもどうしてこの問題にこれほど傷つき躓いたかなぁ、もっと賢い方策があるだろうにと頭をホリホリかいてしまうことがあるくらいだ。だが、人間はえてして他者には理解しがたい何かにでくわし、それを命がけに守ろうとすることがあるもんだィ・・・と今はこのように余裕をもって言えるのだが、この頃は、この投稿文に書いてるままの緊張感をもっていた。

私が危機的な状況を脱したのは、”書く・表現”を手離さなかったからだ。私も心から、『「表現」出来るような社会を築きたい』と思う。勿論、そうすれば全てが解決する、ということではなく、少なくとも、”当事者”にとって必要な道筋が見えるようになるかもしれない、心が強くなるかも知れない、とマジで思う。信じる。

2002年2月12日の投稿ーマオアキラ(改行はかわった箇所がありますが、内容は投稿文のままです)

2001年9月に起こったテロ、その一ヵ月後にはじまった報復戦争・・・あれから四ヶ月経っただけなのですね。その四ヶ月の間に、ブッシュ氏の拳は正義の鉄拳と絶対的に位置付けられ、そのおかげでアフガンに平和が訪れたという認識が、浜辺をひたす波のように世界をひたしていき、今、平和の祭典冬のオリンピックでわきたっています。そしてニュースの片隅に、アメリカの無人偵察機が、ビンラディン氏らしき人を攻撃、本人かどうかを調査中とあります。


 ・・・私はこの四ヶ月、百年分生きたような気がします。それは、アメリカの徹底的なタリバン攻撃が、自分と関係のないところにおいて見ていることが出来なかったからです。こんなことを書くと、自分は安全な日本にいて、何を言うのだ、生命の危機にさらされ、家族を殺され、寒さや飢えに苦しむ人々への冒涜だ、と苦々しく思われる方もいらっしゃるでしょう。でもどんなに顰蹙をかっても、私はこの四ヶ月の間、ずうっと自分もまた攻撃を受けてるような苦しみを感じた、と言いたい、書きたい思いがあります。


 それは、私は自分を、「テロリストだ」と自覚し、常に孤立感に苦しんでいるからです。

 私が、今の日本の社会の中で”異端者”になったのは、ある時期から、ある経緯を経て、私の家に、人々が当然のように犬や猫を捨てにくるようになってからでした。その経緯を事細かにここで述べることは出来ませんが、ベースにあるのは、私は元来平凡な常識感覚で生きていた人間ですが、ただ人より、動物たちの心を感じ、彼らと交感ができ、そして彼らの心を裏切ることができなかったということです。

「あの家に置いておけば絶対飼ってくれる。奥さんは動物好きなのよ」
 この何の悪気のない人々の意識が、私を壊れそうになるほど追い詰めていったのです。うちでは生ませないように避妊、虚勢の手術をしていましたが、人々が次々置いていくのです。家は酷い状態になり、家族を苦しめ、近隣のお宅に迷惑をかけるのです。そのことがなお私を追い詰める。苦しい実状を訴えると、「それならよそに捨てるか、行政で処分してもらったら」とこともなげに言う人がいる。なぜ、心を開ききって自分を信頼している、何の罪もない存在のものを、こんなに愛情もって守ろうとしている私が、捨てなければならないのだ? 殺さなくてはならないのだ? 無神経で、無責任な人たちは、ぽんと私に小さな命を押し付け、いやならどうぞ殺して、とは!・・・・・本当に壊れそうでした。子供は学校でいじめの対象にもなっていました。でも、そのことも、私の”ヘンジンぶり”が悪い、と決め付ける人もいました。誰も、根元を考えようとはしませんでした。


 そして私は、”テロリスト”になったのです。

 行政や、自治会は、私の、「捨てないように、飼い主に避妊などの手術をするよう指導を」という訴えには耳もかさず、迷惑をかけるなとただ批判だけしてこられるようになった頃からです。私は、行政や自治会に痛烈な攻撃をしました。勿論銃ではなく文面ででしたが、銃以上の威力があったでしょう。自分の尊厳を命がけで守る命がけの攻撃でしたから。


 ・・・・・・長い孤独な日々でした。心のなかは生き物たちや、困ってる人々、弱い立場にいる人々への善意に溢れていたのに、私はみんなから恐れられ、忌み嫌われました。

 ・・・今回の報復戦争と、絶対的なアメリカの正義の姿勢は、そうした自分の日々をあらためて思い起こさせ、爆撃をこの身に受けているような痛みに苛まされました。


 人や世間と明らかに違う小数の価値観をもって生きる者は、それが少なからず奇異に見えたり、迷惑を及ぼしかねないものであると、本当に生きにくい社会です。差別、見下しのような感情がおこります。別の問題では自分が人を排他する側になったりします。私は自分が卑しめられる経験をして、自分もまたちょっとした違いで、他者を卑しめる側に立つこともあることを、心から思い知りました。そのことがなお自分を孤独にしていきました。

 この四ヶ月、それらの全部を考えてきました。そして、今後の生き方を考え続けました。
 平和を、愛を、優しさを・・・などと”言う”のは本当に簡単だ。お前は本当にそう生きれるのか。自分の受けた傷を旗印に、人や社会を責めつづけてきた自分であることを忘れるな。と、自分に問い続けてきました。・・・この文を書いている、たった今もです。

 その自問に勇気をもって答えたい。
『同じことを繰り返す弱さと愚かさを、自分で自覚している。そのことを忘れない。・・・それを希望として、次のような願いと祈りをもって日々を大切に生きたい。・・・いろいろな思いや考えや信仰が、上や下の関係のなかではなく認め合う世界になりますように。そして、この地球が、全ての生き物たちの生きるところであることを、全ての人が思い出しますように・・・』

 最後に、アフガンのこどもたちが、二度と爆撃や銃の音を聞かない世界になりますように、そして素晴らしい未来を自分たちで築ける時代になりますように、心から、本当に心から祈っています。