ワンコ、ありがと、ね

ここのところ、Hさんのお宅のワンコが森の食卓に来ない。昨日、車でHさんの家の前を通ったが、それでも姿を見せない。これまで、私の車の音を聞きつけて、広い庭のどこからかノソノソと現れていたのに。


一週間ぐらい前になるだろうか、森に来た。その時も久しぶりだった。「あ、ワンコ、しばらくだねぇ、元気だったぁ?」と声をかけながらカリカリフードに缶詰をかけてやると、イソイソとした風に近寄って食べた。その時、ワンコの身体の調子が悪そうなことに気づいた。尻尾を腹部にまいて、歩き方がしんどそうだった。
おなかが大きいのも気づいた。「またお産をするんだ。しんどいのだろうな」と心で呟いた。


ワンコを見るようになったのは、1995年の11月12日の日曜日以降だ。そんな前のことをなんで克明に記憶しているかというと、この日、愛しいムクがいなくなったからだ。町の議員を選ぶ選挙の日で、近所の当選の決まった議員氏があげた花火の音に驚き柵を飛び越えていなくなった。すぐに帰ってくると思ったのだが、その日がムクとの永遠の別れになった。
探し歩いた。チラシも貼り続けた。チラシには高額の謝礼金の記載もした。
今でも、薄茶色の身体をした犬を見かけると、よその庭に入り込んで確かめてしまう。もはや生きている年齢はとうに過ぎているのに。


ワンコはそのムクによく似ていた。二階から見かけ、「ムク、ムク!」と呼びながら夢中で追いかけ、その子が、Hさん宅の犬だと知った。
ワンコは放し飼いにされていて、その後、猫の食卓のある森に来るようになった。
やがてワンコが次々と赤ちゃんを産んでおり、その子犬が、私の家の前においていかれることもあることがわかった。
「子犬を捨てるのでしたら、生ませない手術をしませんか。私は犬が欲しくてたくさん飼っているのではないのですよ。お宅のような無責任な人に置いていかれたり、捨てられている子があまりに哀れで、引き取って育てているのです。捨てる人さえいなかったら、飼うことはないのですよ」と話した。するとHさん宅のお年よりは、「もうお宅には捨てに行かないよ、だが手術もしない、犬にそんなお金は使えないし、子犬が産まれると孫が喜ぶからね」と言われた。
「でも結局、子犬を育てず、少し大きくなったら捨てるのでしょう。それではかわいそうではありませんか、私が手術費用を出しますから、手術させて下さい」と別の日にも頼みに行ったが、「うるさく言うなら、犬を山に捨てる」と言われ引き下がった。


こうしてワンコは、何度も何度も大きなおなかをしていた。そのたびに胸が痛んだ。後も、Hさんの別のお年寄り、若い夫婦にも会い、子犬を産ませて捨てるのは考え直して、と拝むように頼んだがだめだった。


ワンコは無口でおとなしい犬だった。走る姿を見たことがなかった。体重は多分20キロはあったのではないかと思う。比較的大きくて、いつものっそりと歩いていた。夕方には森に来て、猫と一緒にごはんを食べた。
ワンコと私の交流は、Hさんも、Hさんの地区の何人かの人も公認で、ワンコが私を見ると急いでそばに寄ったり、あとをついて歩くのをニコニコしながら見ていた。ワンコはそういう時、無表情だったが、それなりに気持ちを開いているのは感じた。


この地区は、放し飼いのお宅が多く、ワンコはそういう犬を引き連れて森で私を待っていることもあった。第一の森から第二の森に私が行くことを知っていて、先回りして第二の森でも待っていたこともあった。いつもはのっそりしているけれど、結構速足なんだな、と可笑しく思った。
ワンコは無口だったが、ワンコが私を信頼して好きだったことを私はわかっていた。そして、私もワンコが大好きだった。


そうやっていつの間にか13年が経っていたんだね。
昨日、車で通っても出てこなかったことが気になって、今日(1日)とうとう缶詰をお土産にもって、Hさんのお宅にワンコの様子を見に行った。


前に会ったことのあるお年寄りが出られて、私を見るとすぐに、「犬が、死んだんだよ〜、乳がんだったんだ。奥さんにはかわいがってもらったね〜」と顔をゆがめて言われた。


私は森に行き、ワンコのために祈った。泣きながら「仲良くしてくれて、ありがと、ね」と言った。ワンコが森のどこかにいるような気がしてならなかった。
それから、お年寄りが、悲しそうに顔をゆがめられたことを思い、ワンコは愛されていたのだ、と感じた。
それでも寂しかった。ワンコ、ほんとにありがとう。