瞑想

ここのところお寺のことを書いているが、もう何年か前から祈りや瞑想や座禅に気持ちが向かっている。
実際に、瞑想を学ぶために、「理性のゆらぎ」の作家青山圭秀氏の講座を受講したり、私はかってプロテスタントキリスト教の洗礼を受けているので、近くに教会はないかと探したりもした。


信仰は人間を信じることではないので、そこに生じる人間関係の混沌に悩むことはないと言われるが、すこぶる人間的なレベルの煩悩に苦しむ私はなかなか達観できず、ちょっとしたことでそこが嫌になったりして長続きしない。


そうした自分を救いたい、という思念のようなものがずうっとあって、その思念に押されるように、最近とみに“何か”に向かっていっている。それがお寺を探す、ということにつながっている。


そして朝に夕に祈り、瞑想をする。座禅めいたこともしてみる。
最初の頃は、やたら善きことを頭に浮かべてそれを祈ったりしていた。たとえば、世界平和や生き物も人間も共生する世の中を願うとか。このことをわざわざ祈ったり願ったりすることが、重荷に感じていた。もちろん、そうである世の中になるのは全人類の究極の願いだし、私自身もそれにおいては嘘はない。でも、それを祈り願うのが、別の枠を作ってそこにおさまろうとしているような、そんな妙な重荷を感じるのだ。


・・・と私なりにいろいろな時刻を経て、現在、祈りや瞑想や座禅めく形をとる時、思念するものへの意識はとらなくなっている。ようするに何も考えなくなっている。


・・・なのに、わいてくるんですね。過去の経緯にあった無念や悔しさや憤りや憎しみや悲しみの想念が。それがとても苦しく、ふと気づくと滂沱と涙を流していることがある。一番苦しいのが自責の念です。抑えようもなくわいてくる。