胎児性(小児性)水俣病患者が働く通所授産施設「ほっとはうす」建設に支援を


ほっとはうすメンバー 故正成恭子画 「にぎやかなミニバラたち」
06年 きょうされんカレンダーコンクール入賞作品

水俣病
『1956年4月、九州の不知火海に面した漁業の町、水俣に住む五歳の少女の様子が突然おかしくなる。前の日まで元気だったのに、急に目がトロンとしてきて口も利けなくなった。その17日後に、今度は妹の三歳の幼子が、座ることも食べることも出来ない状態になった。五歳の子は泣き続けたまま衰弱し、ついには三年後に死亡した。

この二人のいたいけな少女の突然の不幸が、人々が水俣病を知る発端になった。それは想像を絶する悲劇の幕開けであり、また被害者たちの壮絶な闘いの始まりでもあった。

原因はチッソ水俣工場が海に流した廃水に含まれていた化学物質、メチル水銀だった。メチル水銀は、魚介を通して人間の身体に蓄積され全身を冒す。胎児も冒された。生後三日で激しいけいれん、全身の硬直まひが起こった赤ちゃんもいた。

この悲劇を生み出した廃水が水俣湾に流されはじめたのは1932年である。1942年には後に水俣病とわかった患者がすでに出ていた。またたくさんの猫が次々に苦しみ狂ったような状態になって死んでいった。

水俣病の悲劇は、複雑な層になっていった。企業や行政や政府の無策。水俣病で倒れた人々は収入は途絶え、伝染病だと嫌われ、お金欲しさのニセ患者ではないかと疑われ、差別や偏見にも襲われた』
えひめ雑誌 '99年2月号 マオアキラ掲載文より


こうした凄絶な歴史を背負ってきた胎児性、小児性水俣病患者の人々が50歳代になりました。十年前に小規模の作業所「ほっとはうす」を立ち上げ、みなさん、支援者の人たちともども、ものすごく頑張っています。


そして2007年12月から、本格的な地域生活支援の拠点となる作業所「ほっとはうす」の建設が始まりました。患者の皆さんは、症状は年々悪化しており、親の方々は高齢を迎え、死亡する方も多くなっています。そういう中、生きる場、働く場、みんなが集まる場が絶対に必要なのです。それには3000万円の建設費がかかりますが不足しています。


私は、わずかなカンパや、何回かのデモ行進や署名活動に参加したり、展覧会をちょっと手伝うというだけですが、水俣病患者の方々の応援を20年以上続けてきました。


そんなささやかな支援者の一人として、この記事を書きました。どうか皆さま、『胎児性(小児性)水俣病患者が働く通所授産施設「ほっとはうす」建設』にご支援をよろしくお願い致します。


郵便振替
口座名:ほっとはうす・さかえ基金
口座番号:01710−7−101928
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
銀行口座:熊本中央信用金庫水俣支店
普通預金:1202239
名義人:ほっとはうすさかえ基金 代表 安川タケ子


<ほっとはうすさかえ基金 代表 安川タケ子>
http://hottohausu.blog18.fc2.com/