仏は何もしない。ただ醒めた眼差しで、人智を超えた〈時間〉、〈時間〉を超えた〈無限大の時間〉の果てを見つめている。それを仮に、〈祈り〉と言おうか。人に出来るのは、その〈祈り〉に寄り添うことだけだ。=【まれびと】より

休む前に友人知人の昨今を知りたくなって検索。
私はここ数年ひたすら夫の介護に専念してひきこもり状態だったので、友人も知人も一人もいなくなっているから、元友人知人といったほうが正しいかも。
ということで元知り合いの林浩平さんが平凡社から「折口信夫 霊性の思索者」という本を出されている。
http://heibonshatoday.blogspot.com/2009/12/blog-post_1644.html


折口信夫から連想して、急に「まれびと」さんのブログに行きたくなった。

仏像は時には人智を超えた何かを宿しているようにも思える。また別の時には只の木片にしか、どう見ても思えぬ時もある。それらはすべてニンゲン(人智)の側からの"揺れ"だ。揺れ動く、つまり迷いがあるのは、すべてこちら側の視線だ。仏は何もしない。ただ醒めた眼差しで、人智を超えた〈時間〉、〈時間〉を超えた〈無限大の時間〉の果てを見つめている。それを仮に、〈祈り〉と言おうか。人に出来るのは、その〈祈り〉に寄り添うことだけだ。

 仏は仏にもなるし、ただの木片にもなる。

ここが好きなんですよね。ものすごく安心するというか自分はなにものだ、という不安感が消える。

仏は何もしない。ただ醒めた眼差しで、人智を超えた〈時間〉、〈時間〉を超えた〈無限大の時間〉の果てを見つめている。それを仮に、〈祈り〉と言おうか。人に出来るのは、その〈祈り〉に寄り添うことだけだ。

http://www.geocities.jp/marebit/Gomu1.html