相撲界の賭博 なるべきしてなった現象

テレビ報道などによると、相撲界では下位の力士は人間扱いされず、まるで道具やひどい場合はゴミの如くの扱いを受けうるという。ゴミ扱いというものがどのような扱いなのか想像もつかないが、昔から大人たちが言っていたことも合わせて考えると、上位の力士や親方にはどんな理不尽も絶対服従、ただ命じられるままに昼も夜もなく働き、暴力を振るわれてもそれは暴力ではなく精進のための鞭とされ、小遣いもなく、食事も日によっては汁しかないという日常なのだろう。

こうした上下関係が厳しい制度のもとで、多くの人々が苦しんできたことは、文学や映画などのなかでは東洋西洋を問わず普通にあったと描いている。それがそのまま生きている世界のひとつが相撲界ということなのだろうか。

そういうことを土台にして思うのは、そうした過酷を受ける十代の少年たちは、何をよすがにして頑張ってきたのだろうということだ。上位にあがる、横綱になるなどの夢を目標として凛と耐えていくのだろうか。
でも、そうした夢、目標があったとしても、毎日毎日過酷を耐える暮らしの中で、何かが欠落していくのではないだろうか。
日ごろ厳しい兄弟子や親方が、厳しいけれど、自分を愛してくれており、だからこその厳しさだと信じれるだけの物心ともの支えになっていたのだろうか。もしそうであれば、怖いけれど尊敬できるという精神の安定を得られるだろう。

だが、そうした純粋に信じる気持ちや尊敬や慕う思いをもてないまま、抑圧と忍耐の日々を送っていたとしたら、彼らはどうなるのだろう。
・・・・・ここに私は、お相撲さんの多くが、ちょっとしたきっかけで賭博に精神の緊張を解く場となっていくのは当然ではないかと思えてならない。またそれが普通であるという良心の呵責にもとらわれない惰性に染まるのも当然ではないかと。
リンチのようなかわいがり事件も質的には同じだったろう。

そういう意味で、今回明るみになった賭博事件が、どのような決着をみるのか気になる。今回罪が露呈した力士や親方だけを罰して終わるのなら、私は彼らに深く同情する。まるでいけにえではないか。

社会全体が、相撲界の内部とかわならい色合いを帯びているとも思う。
毎回何を考えても、結局自分にももどってくるのだが、本当に本当に誰もが、一度は自分の物、心、身を振り返ってみるときにきていることを、畏怖心とともに感じてならない。

そんなこと知ったこっちゃなく生きていいのは、生き物や自然や赤ちゃん、そして、生まれると同時に戦禍や飢餓のなかで生きなければならなくなっているこどもたちだけではないだろうか。