猫のえさやりトラブル

トラブルというほどのことではないが、先ほどここ三年間ほど猫のごはんを配りに行っているほんのわずかの空き地,それも何の手入れもしていない荒地である、に行ったら、木立の陰からアラフォーと見える女性がのぞいている。私に用かとそちらに顔を向けるとそうでもないらしくすうっと別の方向に行かれた。
でも、私がフードを置いて家に向かいかけると、私の背後の方に現われて、フードを置いた方向に行くと、そのあたりの枯れ枝をバンバン叩いておられる。猫は来ていなかったのだが、明らかに猫を追っ払いたい行為と見えたので、私はその人に近づき、「何か?」と訊いた。
そう訊いたのは、猫のえさやりが気に入らないならその意見を言えばいい、と思ったからだ。そうすれば私の考えと気持ちも伝えて話し合いができる。いわば、私が「何か?」と言ったのは、その人の言いたいことを言いやすくしてあげた、つもりだった。

でもその人は、「おたく、毎日こそこそうろついて何してるんですか!」ときた。
こそこそもうろついてもいない。このあたりで痩せて弱った猫を見たのをきっかけに、フードをやり、その猫は不妊手術を施して野良が増えないようにしてきている。誰に対してもそのことは堂々と言っている。
私は彼女の言い草にうんざりしながらも、「猫にエサをやっているだけですよ」と答えて、なぜそうしているかも話し掛けたが、彼女の応答から、『こりゃ、話してわかる人ではないや』と諦めた。

実際彼女は、餌をやることを抗議しているのではなく、自分の土地でやるのがけしからんと言うのである。
「自分の庭でやってくれ」というのである。
私はエサヤリを目的にしているのではなく、たまたまここで見かけた老いた猫をなんとかしてやりたいからだ、と説明するのだが、それがどういう意味かわからないようだった。あくまで、「自分の庭でやれ」と言うのである。この延長で、道路や、他の人の土地でやるならいい、とも言うのである。要するに、えさやりに関して理念はないのだ。ケチなだけだ。


思わず、「あなた、幸せそうじゃないわねぇ」と同情してしまった。他者の言動の”核”を洞察できない不幸な人間がどれだけ世間を狭く冷たくしていることか。
幸せそうじゃない、と言われて怒るかと思った彼女は、なんと、「そうなんです、私は幸せじゃない、なにも楽しいことも面白いこともない」と答えたのである。


私はここで彼女に同情して普通に、「もうここに来ませんから心配しなくて大丈夫よ」と言って帰ればよかった。彼女はたしかに暗く険しく悲しげだった。

私の悪いくせ。(右京さん風に)
ちょっといじめてしまったんですね。自分にしっかりした自信のある人なら結構笑って「よく言うよ」ぐらいで終わる言葉のはずだったが、フコウな彼女はひきつったかん高い声を出した。「私をバカにしてるんでしょーっ!」。
こうなったら仕方ない。「ええ、そうですよ」とバカにして答えた。彼女は、ここまでの経緯で、どれだけ私をバカにした言い方をしたかは気づいていない。だから、あなたの屈辱感は自業自得なんですよ。バーカ。とは言いませんでしたが。


それにしても、うちの土地、うちの土地と、なんとうるさいのだろう。私など、土地どころか家まで提供してる。捨てるヤツを責めもせず。(ナアンチャッテ、こんなロンリが通じるつもりナンザありませんが。ちょっと言ってみただけ。この言葉のオクフカサをわかるのは、ほんの一部でしょう)

私を育てた祖母は、祖父が警察関係者だったので、田畑の世話をするのに一人でやらねばならず、苦労しながら、それでも山も含めて土地を大事にしていたが、でも、「土地はもとは天のもの」と、入ってくるものに寛大だった。積極的な理解者ではなかったろうと思うが、見てみぬ振りをしていたと思う。

私が小学校の高学年で祖父は他界していた頃、山に今でいうホームレスの人が枯れ木を立てて住んでいたことがあって、村で大騒ぎになったが、当事者の祖母は、「よっぽど困ってるんだ」とその人をかばい、出ていこうとするその人に、米を袋に入れてあげていたのを私は見た。

母方の祖母もそうだった。大きなみかん山をもっていたその祖母は、町(宇和島)の中の家のない人がみかん山に潜んでいた時、仕事をしてもらって、お金や食品をわたしていた。
こどもの私は、他の大人がギャーギャーと追っ払うのを怖いと思い、祖母の行為を尊敬した。やはりこの祖母も、本当は人間に、自分のものというのは、魂しかないんだよ、とわかってる人だったと思う。

ナアンチャッテね。こんなこと言ったって、結局手前勝手な主張になるでしょう。世の中そうです。
うちの土地至上主義のフコーな女性がいみじくも言ったものだ。「うちの土地に入るな、という方を正しいという人の方が多い」。ごもっともっす。でも私、そういう正しさに依存するのバカにしてるもんで。