サンデージャポンで、テリー伊藤氏が市橋容疑者について語られた言葉

事件や出来事について、さまざまな意見が番組を通してとびかう。それらを聞いて、自分も同じ意見だと思ったり、えー! そうかな、と思ったりする。でもそうであってもたいていは水の流れをみていくように聞いておわる。人が100万人いれば100万の意見や考えがあるのは無条件でわかっているし、そこでいちいち立ち止まらない。よほどのことをのぞいては。


そのよほどのことを、テリー伊藤氏の言葉に感じた。
市橋容疑者逮捕の映像ともに、出演者がそれぞれに彼の胸中などを発言されていた時である。テリー氏は、「市橋容疑者は反省などいっさいしていない。泣いた、という報道に罪を後悔しているというように思った人もいるらしいが、そうではなく、悔しくて泣いたのだ。リンゼイさんが自分のいうことを聞かなかったから殺した、自分の運命をかえたのはリンゼイさんだ、あいつが悪いのだ、としか思っていない」という意味のことを断言されたのだ。もっと発言は続いた。


私は伊藤氏の言葉を聞いた時、『人それぞれの意見があるから・・・』とそのまま忘れるにはあまりに強烈な断言だと、躓いたのだ。だが市橋容疑者がそうであるかどうか、私には確かめるすべはない。だから、伊藤氏の発言に、市橋容疑者に特定した反論をするつもりはない。


私が躓いたのは、『社会や組織やグループや地域や・・・その場その場で影響力を持つ人間のなかには、孤立したり挫折したり失敗したりする人間を、こうして心の内のことまで平然と決め付けている人がいるが、よく決め付けられるもんだ、いったい何様だ』ということにだ。
私はこうしたリーダー的な人間が他者の翼をむしりとるような断定をしてその場を圧倒し自分の優位性を満たしていく社会こそ、世界を不自由に冷たくしている、と思っている。また自分ひとりでは力をもたない人々が、そうした力あるものに無条件でつき従い、飛び散る哀しい翼を無残にせこく踏みにじる。営々とつづくこうした社会を残念にも思っている。


でも、だからといって、多くのテリー伊藤氏を批判するつもりはない。
ただ一点、聞いてみたい気がする。
「たとえその人が凶悪な殺人犯で、その行為を憎むのは当然としても、その人の心の内までをもどのように決め付けてもいい、ということがあるでしょうか。それに気づかない間は、あなたがたもまた、檻に囚われた獣であるのではないでしょうか?」