サキヨミLIVE 介護特集のムナシサ 2

前のエントリーで、介護制度は、就職の必要な人たちのために出来た制度で、要介護者、介護者の生命や生活の尊厳を守るためため、個人に背負わせないで社会で責任を果たしていこうというのは建前に過ぎない、という意味のことを書いたのですが、そのことが言葉足らずであることが気になっていました。


そこで補足をしておきたいと思います。
私は介護制度が、介護を個人で背負うのではなく、社会も受け止めて、要介護者が幸せな安心のできる療養をする、ということをもちろん素晴らしいことだと思い、また介護という新たなカテゴリーの職業ができて、多くの人がそれに就くこともいいことだと思っています。

それなのに、前の記事でなんであんな嫌味な書き方をしたか、と言いますと、実態そのものは決して理想に向かっていないことを身をもって感じており、そうなった責任は、国がただ形だけを作って、肝心の、どうしていったらいいか、のところは空洞であると見えるからです。空洞のままにスタートをし、制度についている建前をそのまま門前に飾り、高齢者や認知症者を受け入れているのが、多くの施設の実態ではないか、と思えるのです。


そこでは、一人一人の職員が、高齢者、認知症者の世話を懸命にされていることは本当に実感しています。
でも、きちんとした土台のあるシステムが機能していない中では、利用者も職員も、なにか不安定で、その不安定さは、双方の不満と不信をじわじわとしみださせていき、システム的にそうした不満や不安を受け止める土台がないわけですから、必要な解決は得ることはできず、結局、おのおののレベル内で、利用者を世話していく、ということになるのです。そこでは、本人を目の前にして、その人の悪口や冷笑がおこることがあり、家族が出した注意事項も受けたものの判断で流され、利用者にとったら決定的な結果を招くことすらある。・・・要するに制度とは名ばかりの、惰性のお守りの場があるだけ、といっても過言ではない実状すらあるのです。


この責任は、やはり制度をつくったところにあるのではないでしょうか。
今一度全体を見直し、経営者の適正を含めて教育、指導、そして何より思いますのは、就労者の能力を引き出す指導を前提に、社会的な地位を引き上げる見合った給与と労働体制が必要だと思います。このことは何年も前から個人的に書いたり言ったりしてきましたが、実状は年々悪くなっているように見えます。いかに介護制度を国がおろそかにしているか、です。


人間が、自分の仕事に正当な誇りを持つには、正当に与えられるものが必要です。給与も労働時間もいいかげんにして、「高齢者、認知症者の世話をする仕事は大事な立派な仕事だ、排泄の始末などを嫌だと思わずに、好きになろう」など言われて誰がそこに真の誇りとやりがいを感じるでしょう。また献身の美徳をかざしてそれを強いるのは、欺瞞であり、その欺瞞こそ、介護制度をいいかげんにしてる元凶でしょう。